2023/07/06 15:55
著者の三木ひとみさん、かつてストーカー被害から貧困に
2022年1月16日、JR博多駅近くの路上で男に刺された女性が死亡するという痛ましい事件がおきました。女性は元交際相手から執拗につきまとわれ、警察に相談していたことから、ストーカー殺人の可能性が指摘されています。警察は、女性の自宅周辺を重点的に警戒し、女性には、避難や転職を促していたそうです。
しかし、「住所を変えたり転職したりすること」は簡単なことではありません。
『わたし生活保護を受けられますか』の著者・三木ひとみさんも、かつて、ストーカー被害に遭った一人。
幼い一人娘を抱えシェルターに逃れるものの、職も家も失い貧困に。すがる思いで訪ねた生活保護の窓口ではけんもほろろ。見下されたような対応に心が痛み、一時は死ぬことばかり考えていたと言います。
著書の「はじめに」には、幼いころからのいじめやストーカー被害の体験を綴っています。
全文公開致しますので、ぜひ、お読みいただき「ストーカー被害」や「生活保護」について、考えていただけたらと思います。
–『わたし生活保護を受けられますか』はじめにより–
1日たりとも休むことなく生活保護相談対応
●それは私自身の経験から
生活保護の相談や申請書、生活保護行政に関する書類……
行政書士法人ひとみ綜合法務事務所は、2018年1月の開設当初から、全国対応、24時間365日、年中無休で切羽詰まった方々の生活保護相談に当たってきました。
その数、のべ10,000人以上。
「生活保護のサポートは1日たりとも休んではいけない」
その理由は、過去において私自身が手を差し伸べてもらえず途方に暮れた経験があるからなのです。
20年ほど前のこと、ストーカー被害に遭い、幼い一人娘を抱えシェルターに逃れた私は、職も家も失いました。すがる思いで訪ねた生活保護の窓口ではけんもほろろ。見下されたような対応に心が痛み、生活保護は無理だと諦めました。水商売で働くも生活に困窮する日々。「死んでしまいたい」。
それでも私は娘の笑顔に励まされながら勉強をし、行政書士になりました。
●「お前臭いよ」「いつ服洗ったの?」子どもの頃の記憶
行政書士は官公署での手続きを幅広くサポートする国家資格者ですが、なぜ困窮した方があえて私を頼って相談するのか、疑問に思う方もいるかもしれません。
行政書士になる以前のことですが、私自身が若い未婚のシングルマザーで生活困窮した時期がありました。
私は子ども時代、小中学校の頃の良い思い出、記憶というものがあまりありません。
警察官の父と小学校教員の母のもとに生まれ、横浜の高級住宅街にある大きな新築の家で、幸せな日々を過ごしたのは3歳頃まで。妹が生まれた頃から、酒に酔って帰った父が帰宅すると毎日のように夫婦げんかが始まり、妹が宙に飛んだ記憶がおぼろげにあります。父母が離婚した後、心が不安定になり、かたづけたり洗濯したりということができなくなっていた母との暮らしは壮絶で、新築の広い家はみるみるうちにゴミ屋敷と化していきました。
多くの児童・生徒にとって、学校に着ていく服を選ぶことが大きなストレスになり得るというのは、よくある話かもしれません。ただ、子どもの頃の私の悩みは、他の子と比べてブランド服やおしゃれな服を持っていないといったことではなかったのです。
私は、自分で服を洗えるようになる小3頃まで、清潔な服を着て学校に行くことができない日も、少なくありませんでした。昔のクラスメートたちは、もしかしたら単に私をからかっていただけであって、傷つける意図はなかったのかもしれません。でも、「お前臭いよ」とか「いつ服洗ったの?」といった言葉は、子どもだった私の自尊心を喪失させ、それはそれは、落ち込んだものです。幼少期にわりと長期間いじめに遭ったことによる負の影響の1つで、私はが強くなって人を信用できなくなっていました。
●いじめを逃れ奨学金で単身13歳で海外へ。そして進学
中学生になり、図書館で本を読むようになって世界が広がりました。
一念発起し猛勉強をして、日本のいじめから逃れるように、私は海外へ冒険の旅に出ました。親の支援を受けず、奨学金で13歳のときにカナダ・バンクーバーの文通相手を単身で訪ね、15歳で交換留学生としてアメリカ・ユタ州へ行きました。
そして希望の大学に入学。在学中にシングルマザーになるものの、その後リクルートグループに就職しました。この間、中学卒業後は親からの学費支援はなく、育英会と銀行から奨学金を借りてしのぎました。今は完済しましたが、その借金がその後、大きな負担となってのしかかってくるのです。
●就職し充実した日々。しかし……
リクルートグループの個性を尊重する企業姿勢が大好きでした。しかし、充実したリクルート社での日々は長く続きませんでした。シングルマザーで小さな娘を保育所に預けて毎晩遅くまで働いていましたが、ある日娘が保育所でけがをしてしまったのです。
会社を辞めるなんてもったいないと多くの人に言われましたが、当時の私にとっては、娘と一緒にいる時間が何より貴重で優先したいものでした。
私は毎日12時間も面倒を見てくれている保育士さんたちを責める気には到底なれず、むしろ自分自身を責めました。そして、給与は低くても早く帰れる仕事に転職しました。
●ストーカー被害。親子でシェルターへ
新しい職場となった不動産会社はとても良い会社でしたし、私は娘と一緒に過ごせる時間が長くなったことをうれしく思っていました。
でも、平穏な日々は長くは続かなかったのです。
転職後間もなく、ストーカー行為を受けるようになりました。家も突き止められ窓から侵入され、殴られ蹴られ、車に乗れと言われ、「このまま車に乗ったら殺されるだろう」という予感がしたので、通りかかった男性に、「警察を呼んで」と耳元で告げたところ、ストーカー男性が気づき激怒し、路上での暴行が始まりました。
髪の毛を思いきり引っ張られ車に乗せられそうになりましたが、民家の庭の柵に必死につかまり、抵抗しました。その後、1週間も頭皮の痛みが続くほどの力でした。近所の人が集まってきましたが、誰も男性を止めてはくれませんでした。
人の目を気にしてか、男性はいったん私の家の中へ退却。私は警察が来るまで怖いので近所の方の家にかくまってほしいと頼むも、誰も玄関にさえ入れてはくれませんでした。
泣き叫ぶ娘を抱き、警察のパトカーが来るまでの5分間、生きた心地がしませんでした。世間はなんて冷たいんだろう、そう悲しくなりました。
その後、警察に紹介された東京のシェルター(暴力等から逃げた女性の短期避難所的施設)に娘と2人、急きょ入所しました。他の入所者の安全への配慮から、シェルターからの通勤は認められず、自分の居場所を人に伝えることも許されなかったので、仕事を辞めるという選択肢しかありませんでした。
●シェルターの最長滞在期間が30日までだから、母子でここを出てください
シェルターに入居後30日が経つと、行くところがない、頼る人がいないという私の事情は一切考慮されず、シェルター退去を求められました。
無職無収入となった私にどこへ行けと言うのでしょうか。行く当てもないのにと、途方に暮れてしまいました。
「自分も月に20万円くらい生活保護をもらえているんだから、あなたも制度を利用できるはずよ」
シェルターで出会って仲良くなった、3人の娘さんを持つ同じシングルマザーの女性が、そう教えてくれました。
「生活保護」その言葉だけが頼りでした。
●役所の生活保護窓口で門前払い。心が痛み「もう無理」
娘を連れて東京の役所の生活保護相談窓口に行きました。しかし事情を説明しても、けんもほろろでした。
「父親が警察官で母親が教師? つまり親がどちらも公務員でしょう。税金で給与をもらっているわけです。もっとひどい状況の人はいるんだから、自分で何とかしてください」
「引っ越し費用なんて出せないよ。母子寮に入ってもらうけど、環境は良くないし、そもそも空きがあればの話」
「娘さんの学資保険を解約してからでないと、生活保護は受けられません」
両親は離婚しており、私は中学卒業後は親からの援助は一切なく、高校も大学も奨学金で生活していましたが、事情を説明しても聞き入れてもらえませんでした。
見下されたような対応に心が痛み、生活保護は無理だと諦めました。
若く無知だったため、公営住宅の情報などもよく分からず、一時期はクレジットカードのキャッシングは常に上限一杯まで借りての自転車操業でした。
●見知らぬ駅のホームで3時間。死にきれず
何とか日銭を稼ぐ方法はないかと調べ、危うく非合法な仕事に手を染めそうになったこともありましたが、危ない橋は、たとえ生活のためであっても渡ってはいけないと自分に言い聞かせ、常に寝不足の状態で必死に働き、生きてきました。
保育園が見つかるまでは、やむを得ず娘を寝かせてから夜数時間、働きに出たこともありました。急いで帰宅すると、布団にいるはずの娘がおらず、慌てて探すと部屋の隅のカーテンのところで、泣いたまま寝たであろう娘を見つけたこともありました。
保育園に娘を預けて、日中真っ当な仕事ができるようになってからも、学生時代に借りた多額の奨学金の返済と家賃の支払いに追われる日々。
相談できる人もなく、こんな母親で申し訳ないと、娘を保育園に預けた後、わずかばかりのお金を手に電車に飛び乗り、見知らぬ駅に降り立ちました。
「次の電車で、次の電車で……」
気がつけば3時間、ホームに立ち続けていました。
明らかにようすが変だったのでしょう。通報されそうな周囲の視線を感じ、逃げるように改札を飛び出ました。
どこかも分からない町、行く当てもなく、帰るお金もなく、私はただふらふらと歩いていました。すると、私の横に1台のトラックが止まり、運転をしていた見知らぬ初老の男性が声をかけてきました。
「どうしたの?」
●「娘さんのために踏ん張って生きなさい」
その言葉に救われ懸命に勉強し行政書士に
母子家庭で生活も苦しく孤独で、娘に申し訳ないので死のうと思ったんですが死ねなかったんです。もう、娘の保育園のお迎えにも間に合いません、というようなことをボソボソと答えたのだと思います。
するとその方は、保育園に送ってあげるから乗りなさいと言ってくれ、都内の夕刻の渋滞時間に2時間近くかけて、保育園まで送ってくれたのです。その方も仕事があったでしょうに。
「死ぬ気になれば何でもできる、娘さんのために踏ん張って生きなさい」
その見知らぬ男性の温かい優しさのおかげで、何とか今日まで生きてこれたように思います。
そして、いつの日か、娘が母である私を誇りに思ってくれるような仕事がしたいという一心で、英語力を生かした仕事をしながら、懸命に勉強をして行政書士になりました。
●今なら分かる、役所の門前払いは不当な行政行為
今となっては、当時の私が役所で門前払いをされたことは、不当な行政行為であったと分かります。親の経済力にかかわらず、生活に現に困窮していれば、日本人であれば本来誰しも平等に、憲法で保障された最低限度の生活が守られるものだからです。
また、母子寮などへの施設入所を役所が強要することはできず、また、そうした施設に入らなければ生活保護が受けられないわけでもありません。学資保険も内容によっては、生活保護受給中も継続できます。困窮していたあのとき、不慣れな水商売をしなくても生活保護を受けることができたのです。
●1日3度の食事を取れる生活を守る
本書では、繰り返し下記の表現が出てきます。
1日3食を取る生活が送れていないのであれば、生活に困窮した本人が現に寝泊まりをしている場所を管轄する役所の生活保護担当窓口(社会福祉事務所)に出向き、決して絶対に諦めないで、生活保護を申請してください。
実は、これは私自身の経験から実感していることなのです。
かつて、困窮していたシングルマザーだった時、「1日3度子どもに食事をさせる」ことだけは絶対死守しようと決め、子どもの食事を一食でも抜いたことはありませんでした。
3度食事が取れないということは、もうそれは親として子どもを守れない、どんなに苦しくても、それだけは親としての最低限の義務だと思っていました。
しかし必死でした。
ですから、当事務所に相談いただいた方にも、「仕方ないから次の食事はがまんして」とか、「週末の食事はがまんして」ということは言ったことがありません。すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有するのです。
もし、週末の食事がなければ、役所に交渉して何が何でも金曜中に支援してもらいます。
生活保護申請直後の食糧支援や金銭貸付をしようとしない役所に対しては、「次の食事を取る術がないんです」ということを私が訴えて、すぐに食糧を自宅に持っていってもらったこともありました。
●気づけば生活保護の相談は全国から。切羽詰まった方々の相談に対応する日々
行政書士として最初から生活保護業務を専門にするつもりはなく、当初は英語力と最近の国内での外国人率増加の波から、ビザ申請などの入管業務を専門にするつもりでした。
しかし、実際に受ける相談は生活に困っているという内容が多く、私は自分の生活困窮の経験もあるので人ごととは思えず、昼夜を問わず対応していたところ、口コミでどんどん相談が多くなっていきました。
「生活保護のサポートは1日たりとも休んではいけない」
今では、最も多くの生活保護申請書を作成している行政書士の1人になるかもしれません。
●本書が不安におびえることなく安心して「健康的で文化的な」毎日が過ごせる一助となりますよう願っています
そして今、ますます貧困が進む日本において、生活保護で救える命があることを、もっと広く正しく知ってもらいたいと思いこの本を書きました。
本書を通じ、「生活保護制度は、本当に困ったときには、平等公平に受けられる有難い救済制度」という理解が深まること、そして、経済的困窮という周囲に相談しづらく孤立しやすい問題に直面している人たちが、客観的に自分の現状と生活保護を捉え、不安におびえることなく安心して「健康的で文化的な」毎日が過ごせる一助となるよう願っています。
特定行政書士 三木ひとみ