2022/03/25 22:13
『仕事だいじょうぶの本』の著者・北岡祐子さんは、30年にわたり、精神及び発達障がいのある人たちの「働く」ことを支援してきました。
その長い経験の中でも特に忘れられない出来事があったといいます。
同書の122ページ、「おわりに」に、その記述があります。
全文掲載致しますので、お読みいただけましたら幸いです。
20年以上前、精神障がいがあるAさんの忘れられないエピソード
この本を書き終えるにあたり、もう20年以上も前のあるエピソードを紹介したいと思います。
精神障がいのあるAさんのことです。
50代男性の Aさん、20代で病気を患い、何度も入退院を繰り返した後、一人暮らしを始めていました。
穏やかな優しい人柄で、事業所に通っている他のメンバーからも慕われていたAさんでしたが、常に汗と脂の匂いがして、夏などはいっそう強く感じられていました。
私たちスタッフは「お風呂に入っていますか」と尋ねると、Aさんは決まって「入っているよ」と答えるだけでした。「お風呂嫌いなんだろう」私たちスタッフは単にそう思っていました。
事実を知ってなすべき支援とは何かを突き付けられ、衝撃で心が震えた
しかし、ある日、SST(ソーシャルスキルトレーニング) でコミュニケーションの練習をしていたときのこと。Aさんが「銭湯の番台の人にあいさつの後、ひと言を言えるようになりたい」と言ったのです。
よく聞くと、近所の銭湯に行くと番台の人から「今日は暑いね」とか「風邪ひかないようにね」 と声を掛けてもらえて、そのことがすごく嬉しくて何とかその気持ちに応えたいと思っていると言うのです。
しかし、緊張してどう返事をしていいか分からないまま黙ってお金を渡してしまうことが心苦しく、そのことが原因で銭湯に行きにくくなっていたと。
その話を聞き、私は自分自身の思い込みに対する恥ずかしさと、A さんの本当の気持ち、そして私がなすべき支援とは何かを突き付けられ、衝撃で心が震えたのを思い出します。
番台の人へのあいさつ + ひと言添える方法を皆で考え熱心に練習し
私は早速、覚えたばかりのSSTで「番台の人へのあいさつ + ひと言添える方法」を皆で考え、Aさんは熱心に練習しました。皆も協力し、番台の人の役になったり、Aさんの良かったところをほめました。A さんはとてもうれしそうでした。
そして翌日。事業所にはさっぱりとしたAさんが登場したのです。そんなAさんを見て他のメンバーもスタッフも大喜びしたことを思い出します。
相手の反応によって傷つき苦しむ思いをこれまで嫌というほど経験。そしてコミュニケーションに躊躇してしまう
思いを言葉で伝えるということは、実は簡単なことではありません。皆がすぐできたらSSTはいらないでしょう。
しかし何らかの生きづらさや、他人には言いたくない事情を抱えている人たちには、生活する上で多様な課題が次々と出てきます。
例えば、
「電車でばったり同級生に会い、仕事していないことをさとられたくないときはどう会話したらいいか」
「髪をカットしたいが美容室で自分のことを聞かれると思うと行きたいのに行けない」
など、他の人ならあまり考えないかもしれない難しい対処法を迫られることになるのです。
電車に乗ったり、美容室に行ったりするスキルは十分あるのですが、コミュニケーションに関して深刻な悩みが生じ、行けなくなってしまうのです。
それぞれの事情を伝え、相手がすぐ理解し受け入れてくれたら、悩みは生じないかもしれません。
しかし相手の反応によって傷つき苦しむ思いをこれまで嫌というほど経験しているため、コミュニケーションに躊躇してしまうのです。
生きづらさを抱え困難な状況に直面しながらも、明日への道を切り拓こうと挑戦を続けた人たちからのメッセージが詰まった本
それは仕事も同じです。私が今まで支援した皆さんは、仕事の内容を理解し、練習してできるようになる場合がほとんどです。しかしコミュニケーションで悩み苦労し、働くことにハードルを感じています。
就労支援に携わって30年。私は、多くのことをメンバーの皆さんから教えてもらい、専門家として育ててもらいました。
この本で紹介している場面の例や対処法は、全て、実際にSSTプログラムに参加したメンバーからの質問と練習内容、そのときに提案されたたくさんのアイデアに基づいています。
メンバーに、それまでどのように対処すればいいのか分からなかった課題を出してもらい、皆で一緒に考え熱心に練習した内容です。
生きづらさを抱え困難な状況に直面しながらも明日への道を切り拓こうと、挑戦を続けた人たちからのメッセージが詰まった本です。
学校を卒業し新社会人として歩み始めた人や、働きたいがコミュニケーションに自信がないと感じている人、また今働いているけれども職場の人間関係に悩んでいる人、後輩や部下にどう指導していいか分からない人、そして就労を支援する立場の人にも、ぜひ、お読みいただければと思います。
本書をあらゆるところで、それこそボロボロになるまで活用いただけましたら、これ以上の喜びはありません。皆様のお役に立てることを心から願っております。